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CES 2023特集II ― ヘルステックが大きく進展
ライフケア、がん治療もパーソナライズ化

海外動向

清水 計宏

イベントテーマ「BE IN IT」には複合的な意味

 3年ぶりに活気を取りもどしたCES 2023では、「BE IN IT(参加して)」=写真=がイベントテーマとなった。これには複合的な意味がある。「IT」は、直接的に「CES」を指すが、ITには「Information Technology(情報技術)」の意味もある。いまやITは、ビッグデータとAI(人工知能)が結び付いて、イノベーションの先導役となり、「モバイルファースト」から「AIファースト」へとシフトさせた。企業や産業の競争力を高めるには、データを収集して、それを価値に変えることが欠かせなくなっている。一方、人類は地球温暖化による深刻な危機に見舞われている。異常気象・気候変動、生物多様性の損失、食糧不足を引き起こしているだけでなく、マラリア、日本脳炎、西ナイル熱、デング熱といった感染症の増大も懸念されている。

 実際、2019年12月から始まった新型コロナ感染症(COVID-19)は、パンデミック(世界的流行)からエンデミック(特定地域で流行が反復)のフェーズに入ったものの、いまなおグローバルに影響を与え続けている。追い打ちをかけるように、ロシアのウクライナ軍事侵攻、中国の台湾侵攻準備と緊迫感は増しており、あらゆる業界において、サプライチェーンは連鎖的に混乱に陥っている。レジリエント(回復力)なロジスティクスシステムは喫緊の課題となり、サプライチェーン全体の可視化が進んでいる。
 こうした人類を取り巻く、地球規模の難題とともに、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I : 社会的包摂)、ジェンダーパリティ(社会的・文化的性別公正)、アクセシビリティ(使いやすさ)といった社会的課題にも、一人ひとりがかかわり、人類の持続可能性(サステナビリティ)を回復していこうという意思が「BE IN IT」には隠されている。
 ソーシャルメディア(SNS)やオンライン共有プラットフォームの普及で、マスメディアでは受け手に過ぎなかった個人が、自ら発信できるようになった。こうした「一人称メディア」が増えるなかにあって、匿名ツールやメタバースにより、外観を自由に変えられるアバターやメタヒューマン(デジタルヒューマン)にもなれる「無人称化」も並行して見られる。
 フィジカルの現実世界に目を移せば、自律性・自発性が求められるようになっている。テクノロジー発達の作用もあり、「パーソナライズ化」「オンデマンド化」「分散化」が広い領域に及んでいる。こうした傾向は1990年代半ばからCESで見られ、今回はさらに顕著になった。

セラピーや治療用VRシステムにも広がり

 CES 2023の出展・カンファレンスでは、オートモーティブ(Transportation and Mobility)、デジタルヘルスケア(Digital Health)、Web 3.0/メタバース(Web3/Metaverse)、持続可能性(Sustainability)、全ての人のための人間安全保障(HS4A:Human Security For All)の5つが主要なテクノロジーテーマとなった。
 とりわけ、COVID-19パンデミックの影響を受けて、ヘルスケアに代表されるヘルステック(Health Tech)が著しく進展し、デジタル治療(Digital Therapeutics)、遠隔医療(Telehealth)、フィットネステック(Fitness Tech)が、ホームヘルスハブ(Home Health Hub:HHH)になった。HHHとは、ネットワークを通じてヘルスケア、医療デバイスをつなぎ、データを集約する機能で、モバイルデバイスやウェアラブルデバイスの普及により市場が広がっている。

 ヘルステックのイノベーションとして、「オンデマンドネットワーク」やストレスや不安の解消、鬱病のモニタリングをする「メンタルウェルネス(Mental Wellness)」、フィットネスや身体トレーニングが一般化している。加えて、ドイツのBoschが示したように、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如多動症)の患者向けのVRセラピー(心理療法)のような治療用VRシステム=写真=の広がりも見られる。オンデマンドネットワークでは、スマートウォッチやフィットネストラッカーなどフィットネス(ウェルネス)プラットフォームが、年中無休(24時間365日)で提供されている。COVID-19パンデミックで、リモートモニタリングやオンライン薬局も珍しくなくなっている。

 CES 2023では、先端テクノロジーが既存のモノやコトと融合し、あらゆる業界でイノベーションが起きていることを目の当たりにできた。参加者は、その真っただ中にいて、まさに「BE IN IT」あるいは「I am in IT」だったわけである。
 ここで、前半で少し触れた、世界情勢の流動化で加速したサプライチェーンの可視化の実例を補足しておく。
 米国の貨物運送のUPS(United Parcel Service)は、COVID-19のワクチン輸送を追跡・監視するために、位置情報はもとより、温度、動き、衝撃、光への露出、気圧など、運送・保管・管理に求められるデータを収集して、そのデータをリアルタイムにコマンドセンサーに送信している。各貨物にはセンサー類が組み込まれている。Pfizer(ファイザー)のCOVID-19ワクチンでは、ドライアイスを使用してマイナス70度(摂氏)保管温度が条件になっている。このため、温度制御されたサーマルシッパー(Thermal Shipper:保冷ボックス)で運搬される。UPS オペレーターは、ワクチンの出荷を見守り、タイムリーに配送を管理する任務を負っており、リアルタイムの可視性により、悪天候や環境変化からワクチンの品質と安全性を確保できるようになった。
 また、米国の商用車メーカーのDaimler Truck North America では、サプライチェーン全体をエンドツーエンドで監視するため、「Microsoft Supply Chain Platform」 を導入して、プロセスを効率化しながら、ダウンタイム(中断・休止時間)の削減に取り組んでいる。こうした動きは、さまざまな業界で見られるようになっており、サプライチェーンのアジリティ(機敏性)、自動化、持続可能性を高めている。

加速するヘルステックのパーソナライズ化

AliveCor(アライブコル)

CES 2023では、ヘルステック分野で大きな前進が見られた。

 心電計を手がける米AliveCorは、スマートフォンと組み合わせて不整脈を検知できるクレジットカード大の薄型デバイス「KardiaMobile Card」=写真=を発表した。FDA(米食品医薬品局)から許可を得て、2023年2月から販売を開始した。これに先だち、左右の手指を乗せて心電図をスマートフォンに映し出す「KardiaMobile」を開発していた。これをクレジットカードサイズまで薄型にした。サイズは85.6mm×54.0mm×1.2mm。耐水性があり、いつでもどこでも手軽に検査ができる。計測できる不整脈は、(1)心房細動、(2)徐脈、(3)頻脈、(4)心室性期外収縮、(5)上室性期外収縮をともなう洞調律(洞リズム)、(6)QRS幅(左右の心臓の筋肉が興奮する時間を示す指標)の広い洞調律――の6種類。精度は、医療機器レベル。計測データはBluetooth経由でスマートフォンに送られ、専用アプリで確認できる。

Essence Group(エッセンス・グループ)

 イスラエルのEssence Group は、高齢者を見守りながら健康の悪化を防止するテレケア・プラットフォーム「Care @ Home」をアピールした。年配者の転倒を検知するセンサーデバイス「MDsense」を使用することで、病状が悪化したり、転倒を検知したときに、リアルタイムで見守る人にアラートを発する。

Abbot(アボット)

 糖尿病管理をサポートするグルコース・モニタリング・システムや血糖自己測定器を取り扱う米Abbotは、患者のライフスタイルに合わせて、脊髄刺激療法(SCS:Spinal Cord Stimulation)により多部位および進行性の痛みを治療する「Proclaim Plus」=写真=を出展した。これは、脊髄に沿った神経に軽度の電気パルスを送る、身体埋め込み用の脊髄刺激デバイス。痛みの信号を感知し、慢性的な痛みを和らげてくれる。個人の治療ニーズに合わせて調整できる。パーキンソン病などの運動障害向けの脳深部刺激療法の遠隔診療をする「NeuroSphere Virtual Clinic」プラットフォームと組み合わせて利用できる。

Withings (ウィジングズ)

 スマートヘルスケア製品を手がけるフランスの Withings は、自宅で簡単な尿検査ができる「U-Scan」=写真=を製品化して大きな話題となった。体外診断の専門家と協力しながら、4年の歳月をかけて、数え切れないほどの技術的、化学的課題を克服し、実用化にこぎ着けた。出願特許数は13件に上る。円筒形の回転できるカートリッジをトイレに取り付けて、尿をするだけで、手軽に検査ができる。デバイスは、直径90mmの充電式。センサーが、尿とそのほかの液体を区別し、尿サンプルだけを収集口に集めて自動的に検査する。測定値は記録され、体調や健康を見守る。カートリッジは最大3カ月間測定できる。

MedWand Solutions(メドワンド・ソリューション)

 米国の医療機器メーカーのMedWand Solutionsは、CES 2023を機に、リモートで患者を診断できる「Urban-Rural Healthcare Alliance」 を立ち上げた。小型医療機器「MedWand」を利用して、自宅にいる患者のバイオデータが取得できる。このヘルスケア・アライアンスは、AT&T、HP、Oracle の支援を受けたプロジェクト。遠隔方式を採り、医療関連のリソースを共有することで、ヘルスケアの機会を増やすことを目的とする。都市の医療センターと十分な医療サービスを受けられない地方・地域とを結ぶハブ・ アンド・スポーク・プラットフォームを目指す。医師や医療機関がハブ(中心拠点)となり、インターネットを介して、リモートで患者を診断・検査できるようにする。MedWand Solutionsが、遠隔トリアージと遠隔患者モニタリングをサポートする。ビデオ通信を使ったリモート医療システムと医療提供者のワークフローが統合されている。医療従事者の不足に対応し、健康の公平性とともに、医療提供者と患者へのコスト負担を軽減することで、「どこでも医療ケア(Clinical Care, Anywhere)」を目指している。

ヘルスケア・デバイスにもリモート機能を搭載

SK Biopharmaceuticals(SKバイオファーム)

 韓国SKグループ傘下の SK Biopharmaceuticalsは、「Zero Glasses」と「Zero Wired」を出展し、韓国の製薬会社として初めて、デジタルヘルス部門でInnovation Awardを獲得した。眼鏡型のZero Glassesとスマートフォンに接続して使用する流線型デバイスのZero Wiredは、ともに脳波・心電図などの生体信号を測定する。かつて「てんかん」と呼ばれた脳電症患者による発作をなくすため、「Project Zero(プロジェクトゼロ)」を進めており、その成果による製品。両製品ともSKバイオファームが開発したモバイルアプリ「ZeroApp(ゼロアプリ)」を通じて、リアルタイムで生体信号記録・送信が可能。脳で起きた激しい放電から起こる発作を検出でき、その予測医療もできる。

BioIntelliSense(バイオインテリセンス)

 米デンバーに本拠を置き、医療グレードのリモートケアを提供するBioIntelliSenseは、FDA 認可済みの医療用ウェアラブルデバイス「BioButton」=写真=と、スマートケア施設プラットフォームを提供するcare.ai の「Smart Care Facility Platform」との統合を発表した。患者のバイタルを追跡し、看護タスクの自動化を促す。病室の継続的な見守りをしながら、チームのパフォーマンスを測定できるAIソリューションを医療施設に提供する。BioButtonは、最大90日間にわたり継続的なバイタルサインの監視ができる1回限りのウェアラブルデバイス。大きさは20セント硬貨程度。安静時の継続的な体温、呼吸数、心拍数を測定し、リスク管理ができる。2021年のCESで発表されてから、広く使われている。

CONNEQT(コネクト)

 オーストラリアのデジタルヘルスケア企業であるCardieX(カーディエックス) の傘下にあるCONNEQT は、新たな血圧モニター「CONNEQT Pulse」を発表した。このデバイスは、医師や医療機関に測定データを送信して、患者の遠隔モニタリングを可能にする世界初の血管バイオメトリック・ヘルスモニター。在宅医療、遠隔患者モニタリング、分散型臨床試験のニーズを満たすように設計されている。高度な動脈検診技術を使用して、自宅から医療グレードの心臓の健康指標を提供できる。

Valencell (ヴァレンセル)

 米国を拠点に生体認証を手がけるValencell は、世界初のカフレス(腕帯のない)血圧モニター=写真=を出品した。2021 年に製品化計画を発表し、CES 2023で実機を発表した。血中酸素飽和度(SPO2)の測定に広く使われているフォトプレチスモグラフィ (PPG:光電式容積脈波記録法) センサーと、7000人超の患者で学習・訓練されたAIを組み合わせた。Valencell は、韓国サムスン電子やフィンランドのスマートウォッチメーカーのSuunto(スント)、米国音響機器メーカーのBose(ボーズ)、デンマークのオーディオ機器メーカーのJarba(ジャルバ)向けのセンサーも開発している。

DozzyCozy Technology(ドジィコジィ・テクノロジー)

 台湾を拠点とするDozzyCozy Technologyは、睡眠中の身体の向きを検出し、空気圧を用いて、枕の高さをミリ単位で調整するスマート枕「AirCozy」を出品した。Bluetoothスピーカーを内蔵し、好きな音楽を聴きながら眠れるだけでなく、安眠に誘う5種のホワイトノイズを再生して、パートナーのいびきを弱めることもできる。

カナダNuraLogixは自撮り動画から健康指標を検出

 カナダのトロントに本社を置き、医療AIを手掛けるスタートアップのNuraLogix(ヌラロジックス)は、CES 2023において、「Take a selfie, know your healthie !(セルフィーを撮って自身の健康を知って!)」を掲げて、セルフィー(自撮り画像)するだけでヘルスケアができる「Anura(Anura Telehealth)」のバージョンアップ版=写真=を出展した。デジタルヘルス部門でInnovation Awardを獲得。この非接触で健康状態を知ることのできるアプリは、CES Asia 2019でデビューし、CES 2021に出展された後も機能を向上させ続けている。iOSおよびAndroid デバイスで利用できる。 Anuraは、30秒間の動画を自撮りして、そこから個人の健康指標を医療グレードで測定できる。継続的な健康状態とバイタルサインを計測でき、 患者と医療従事者との間の遠隔診断の予約も手軽にした。すでに、遠隔医療や遠隔患者管理、保険業界で使用されている。

 各ユースケースに適応するため、インタフェース、テンプレート、レポートなどの機能をカスタマイズできる。ZoomなどのWeb会議(ビデオチャット)ツールとも統合させることができる。
Anura は、心拍数、心拍変動、心臓負荷、心血管疾患リスク、呼吸、血圧、ストレス レベル、BMI(Body Mass Index:ボディ・マス指数)などの生理学的および心理的指標を評価できる。これがスマートフォンだけででき、ウェアラブルデバイスを必要としない。リモートでの測定にも対応する。すでに、研究所や診療所でも使用されており、アプリの精度は実証されている。
 特許取得済みの経皮光学イメージング (TOI:Transdermal Optical Imaging) により、顔の血流データから30種以上のパラメーターの測定を可能にした。TOIは、光を使用してユーザーの顔の血流を分析する方法。人間の皮膚は半透明であるため、皮膚の下のさまざまな組織を介して、表皮から反射される光とそのそれぞれの波長からのデータをキャプチャーして記録する。取得データは、NuraLogix のクラウドベースの解析エンジン「DeepAffex」へ転送され、人間の反応を認識・解釈・処理、シミュレートするアフェクティブ・コンピューティングとAIを組み合わせて解析される。
 DeepAffex は、計算モデルと機械学習(マシンラーニング)アルゴリズムを使用して、顔の動画から血流のわずかな変化を捉える。測定結果は、ユーザーのスマートフォンへ送られる。
 NuraLogixは、遠隔地や農村部の住民に年中無休で遠隔医療サービスを提供するため、ナイジェリアベースの遠隔医療プラットフォーム「LaFiya TeleHealth」とパートナーシップを締結している。
 Anura は、米国と英国の英語のほか、中国語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ブラジリアンポルトガル語、日本語の9カ国語で使用できる。アプリによって収集されるデータの種類は、非常に機密性の高い情報で構成されているため、プライバシーに関する懸念はないとしている。
 NuraLogixは、米国公認会計士協会(AICPA)が開発したサイバーセキュリティ・コンプライアンス・フレームワークであるAICPA SOC 2(Service Organization Control Type 2)のほか、カナダの連邦法であるPIPEDA(Personal Information Protection and Electronic Documents Act :個人情報保護および電子文書法)、米国のHIPAA(医療保険の相互運用性と説明責任に関する法律)、EU GDPR(EU一般データ保護規則)に準拠している。
 企業向けには、デジタルヘルス、保険、企業のウェルネス部門の各種ソリューションと統合できるソフトウェア開発キット (SDK) を提供している。
 Anuraは、米MIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボから独立したAffectivaが開発したAffective AIベースのアプリから始まった。Affectivaは、顔の筋肉のわずかな動きから感情を分析し、データ化するテクノロジーを開発し、スウェーデンで視線計測システムを開発するSmart Eyeの傘下に入った。

 Anuraは、デバイスやセンサーを装着せずに、非接触で血圧測定ができる世界初のアプリとして登場した。開発のきっかけは、TOIを用いて、顔の血流パターンから子どもの嘘を見抜く方法を開発していたとき、顔の血流と血圧が関係することを偶然発見したことだった。Anuraは、NuraLogix のCEO であるMarzio Pozzuoli 氏とともに、カナダのトロント大学(University of Toronto)に付属する「Dr. Eric Jackman Institute of Child Study Laboratory School」の教授に就いていたKang Lee(カン・リー)氏が共同で開発した。Pozzuoli 氏は、中国出身で、カナダのニューブランズウィック大学(University of New Brunswick)で博士号を取得している。

米Moderna のCEOのステファン・バンセル氏が対談

 CES 2023 では、医療・薬品、ヘルスケアにかかわる多くの企業・団体幹部が参加し、その近未来について話し合った。そのステージとなったのが「デジタルヘルス・スタジオ(Digital Health Studio)」。ここでは、ヘルスケア、医療・医薬分野における新たなイノベーションにより、どのような変化が起こるのかについて、活発な議論が交わされた。

 2023年1月7日午後1時から1時30分まで、ラスベガス・コンベンションセンター北館(LVCCノースホール)の会議場(N250)で実施されたセッション「個別化医療: がん治療の未来は万能ではない(Personalized Medicine: The Future of Cancer Treatment is Not One-Size Fits All)」では、ヘルスケア改革のリーダーとして知られるスティーブン・クラスコ(Stephen Klasko)氏=写真右=が、 米ボストン地域に拠点を置くバイオテクノロジー企業のModerna (モデルナ)の CEOであるステファン・バンセル(Stephane Bancel)氏=写真左=にインタビューした。Modernaは、細胞内で特定のたんぱく質を作るための指令を出すmRNA(メッセンジャーRNA)を使ったワクチンを短期間で開発した。クラスコ氏は、2013年から2021年までの約8年間、トーマス・ジェファーソン大学のプレジデントとジェファーソン・ヘルス(Jefferson Health)のCEOを兼務し、現在、General Catalyst & Stel Life の常駐エグゼクティブを務めている。

 このディスカッションでは、Modernaのトップであるステファン・バンセル氏が、がんの治療が、将来的には画一的なものではなく、より個人の体質に合わせてパーソナライズされるなかで、mRNA医薬が、がん治療の鍵を握るかもしれないことを語った。
 感染症ワクチンの開発には、通常、最低でも数年はかかると言われてきた。だが、COVID-19ワクチンはウイルスの同定から1年以内という、極めて短い期間で開発され、mRNA医薬への道を開いた。mRNAワクチンは「遺伝子ワクチン」とも言われる。 mRNA医薬については、さまざまな意見や見解が拡散しており、Moderna は「神話(誤解)を打ち破る」ことにも取り組んでいる。
 人間だけでなく、あらゆる生物の遺伝情報は二重らせん構造のDNAという遺伝物質に保存されている。生物の全ての細胞に含まれるDNA分子のセットは、ゲノムと呼ばれている。それぞれの細胞で異なるタンパク質が作られ、その結果、さまざまに分化した細胞ができることで生体を形成している。
 このDNAから異なるタンパク質を作るメカニズムに欠かせないのがmRNAであり、たんぱく質の設計図となる。mRNA医薬は、身体の外から特定のmRNAを薬物として入れることにより、目的とするタンパク質を体内で人工的に作らせて、不足する機能を補うことを可能にした。
 「多くの人が、COVID-19のパンデミックがmRNAワクチンへの道を開いたと考えている。これは、規制上の障壁を克服したという点では真実だ。同時にパンデミックは、それが始まる以前にModernaが取り組んでいた、がんワクチンの臨床試験(治験)を遅らせてしまった。というのも、COVID-19に感染するリスクがとても高かったことから、病院に患者を連れていこうとする人が絶えてしまい、2019年4月に始めた試験をいったん中止せざるをえなかったからだ」
 バンセル氏は、2020年の時点であまり認識されていなかったが、いまにして思えば、COVID-19パンデミックにもかかわらず、がん治療の開発については加速させるべきだったと語った。
 mRNA医薬は、 ModernaやPfizer(ファイザー)、BioNTech(ビオンテック)によって開発されたCOVID-19 ワクチンの代名詞となった。だが、この技術の究極の目標は、もともとがんを対象にしていた。さかのぼれば、20年前に生まれたmRNA技術だが、ずっと偏見や嘲笑、批判、揶揄の対象となってきた。長い間、「醜いアヒルの子」だったが、2020年から世界中でCOVID-19ワクチンが何十億人もの人びとに接種されたことで、ようやく有用性が証明され、「美しい白鳥」になった。世界の先進国で、mRNA がんワクチンの開発が進められているが、この分野でも日本は遅れを取っている。 

AWSでホストされるModerna のmRNAプラットフォーム

 mRNA医薬は、生物学的ソフトウェアに似ていて、患者の体に自分で薬を製造する方法を伝えるものだ。すべての人は 99.9%、 同一の遺伝子を持っているものの、100万の違いがある。つまり病気や治療に対して、各個人によって反応が異なるのだ。
 すでに個別化された免疫療法は実用化されており、特別にカスタムメイドされた mRNA がんワクチンが実現する可能性がある。

 Modernaと独BioNTechのmRNAがんのワクチンの開発パイプライン(医療用医薬品候補化合物・新薬候補)は、がん患者向けの個別化医療の可能性を広げた。しかし、がんの研究は他の医学的試験よりも複雑であることから、Modernaにとっても容易なことではないと、バンセル氏=写真=は語る。「がんワクチンが有効かどうかを知るためには、約 12の段階を完遂する必要があるため、いまだ癌治療の開発に取り組んでいるところだ」新薬の投入までには、長期間に及ぶ実験サイクルと、研究・製造されている個々の薬剤のためのカスタム施設を設計する必要がある。複雑なGLP(Good Laboratory Practices:優良試験所規範)、GMP(Good Manufacturing Processes:適正製造規範)、FDA(U.S. Food and Drug Administration:米国食品医薬品局)の基準・規制にも準拠しなければならない。

 mRNA ベースの薬剤を迅速に低コストで柔軟性をもって進めるためには、スケーラブルなコンピューティングとオートメーション、企業が保有するデータを統合するITインフラストラクチャーが欠かせなくなっている。「患者から、がん細胞と健康な細胞を採取し、両方の配列を決定し、AWS(Amazon Web Services)クラウド=写真=に送信して、すべての塩基を比較する。それからAIを使用して、がん細胞の外側にある最も関連性の高い約 40の変異をスクリーニングする。これを mRNA 医薬にエンコードして、免疫系に導入できるようにする」(ステファン・バンセル氏)AWSでホストされているModernaのmRNAプラットフォーム「Drug Design Studio (DDS)」は、暗号化されたクラウドベースの Webポータルであり、計算アルゴリズムを使って、特定の医療効果に最適な mRNA 配列を特定することができる。これにより、mRNA 医薬を数分で設計し、最適化してから、製造工程へ送り、数週間で納品することを可能にした。

 「これらの工程は、すべて特別に設計された工場のような冷蔵環境で進められ、ワクチンが特定のがんに一致する患者のために、5~6日をかけてひとつのがんワクチンを製造することができる」(ステファン・バンセル氏)

mRNA技術によるがんワクチンの難しさと明るい兆し

 バンセル氏は、がん細胞だけを標的にするのに苦労することが多いと言う。他の病気の治療法とは異なり、この方法は免疫システムを活性化し、免疫チェックポイントを使用して、がん細胞にだまされる以前の免疫システムにある本来の機能を取り戻そうとするからだ。つまり、どの細胞が健康であり、どの細胞が、がん性であるかを解読することが求められる。
 免疫チェックポイントには、免疫細胞の表面にある「PD-1」のほか、PD-1のリガンド(生体分子と複合体を形成して生物学的目的を果たす物質)である免疫チェックポイント・タンパク質の「PD-L1」、細胞傷害性Tリンパ球抗原4の「CTLA-4」など、いくつかの種類がある。
 「PD-1 のような、別のチェックポイント阻害剤を開発するために mRNA 技術を使用したくはなかった。なぜなら、すでに十分な量のワクチンが存在するからだ。むしろ、ワクチンに反応しない患者のために、利用可能な薬を補完できるワクチンを開発したかった」

 バンセル氏の発言に対し、聞き手のスティーブン・クラスコ氏=写真=は、「病気の人にmRNAワクチンを接種する場合、安全上の懸念はあるか?」と聞いた。これは、COVID-19ワクチンが健康な人に使用されたのに対して、がんワクチンは患者に接種することになるからだ。バンセル氏は、「COVID-19 mRNAワクチンは、すでに 8 億回以上も投与されており、非常に良好な安全性プロファイル(分析結果)が示されている」と懸念を払拭した。Modernaの悪性黒色腫(メラノーマ) 向けの実験用ワクチンの臨床試験は順調に進んでおり、2023年には第3相臨床試験に入る予定。今後5年間で、こうした腫瘍タイプに対するいくつかのがんワクチンが実用化されるだろうと予測した。従来の薬が効かない、子どもに希有な遺伝病や、駆出率(くしゅつりつ)を改善するために、心臓発作後に血管を再生するためのmRNA注射など、パーソナライズできるmRNA療法を、いくつか実例として挙げた。駆出率とは、心拍ごとに心臓が送り出す血液量(駆出量)を心臓が拡張したときの左室容積で除した値のことを指す。これは、心臓の機能評価の指標のひとつになっている。

 クラスコ氏は、mRNA がんワクチンの費用について尋ねた。
 「公衆衛生上の懸念であるCOVID-19とは異なっており、がんワクチンが無料で配布されることはない。このため、この革新的な技術はコストの問題を引き起こすだろう。米国において、がん治療は高額であることが知られており、これはパーソナライズされた治療法においても例外ではないはず。がんワクチンがしっかり患者に届くためには、健康保険プログラムのサポートが必要になる」 
 バンセル氏は、がんワクチン医薬が患者の入手しやすい手頃な価格にすることを優先しなければならないと力を込めて語った。

<つづく>

 (清水メディア戦略研究所 代表)